神保町のシマリス老人と見世物小屋のヘビ女とヒヤシンスの老化
三月○日
そのつもりはまったくないのに、仕事がたてこんでくる。二月刊予定の単行本
がひと月遅れて、四月刊のはずの単行本がひと月繰りあがって、三月三冊同時
進行ということになった。土曜日も会社に行かなければならなかったりする。
昼すぎにJR御茶ノ水駅でおりて、いつになくこんでいる楽器街を過ぎて神保町
に入る。平日には見ない家族づれが歩いている。ひごろはぼんやりした老人
か、うすぼんやりした学生しか歩かないところを、「まあジャージもありかな」と神
保町をなめくさった、いってみれば三鷹駅前周辺を歩く若い家族づれのような連
中が闊歩している。井の頭公園のモルモット広場にあたらしいモルモットが入る
と「いつもの立ち位置が微妙にずれてこまる」とモルモットがぐちることがある、
と性悪フェネックに聞いたことあるけど、きょうのすずらん通りはたしかに歩きに
くい。
家族づれだけじゃなくて、古本探しに劇場的に気合いを入れて傍若無人に小
走りする老人もそこかしこにいる。このての避けてもぶつかってくる老人をこなし
ながら、会社にたどりつき、ビルの裏口から入る。入り口で、セキュリティーカー
ドをドアの横のモニターにかざす。
「警備を解除します」
物騒なアナウンスが、「バックしますご注意ください」と同じ女の人の声で流れ
る。ドアの鍵を、あわてながら開けて編集部に入る。
そこから、うんざりする一日が始まる。ゲラに朱入れしたり、項目の構成を入れ
替えたり、写真の順番を考えたり、まあ雑務に追われる。なにも土曜日にやらな
くてもという仕事ばかりである。ああハートランドビール飲みたい。
夕方、この苦の世界(宇野浩二とはちがうけど)から解放され、会社を出る。す
ずらん通りでは、ジャージ家族や老人たちがあいかわらずうろうろしている。老
人なんて、実家に戻ったシマリスのように、わがもの顔でそそくさと移動してい
る。けっしてそうなりたいわけではないけど、楽しそうという一点において、老人
たちはうらやましい。
ふたたび電車に乗り、荻窪で総武線に乗り換えて、西荻窪でおりる。南口を出
て、いつもの居酒屋に入る。いつもの性悪フェネックがいる。
横に座ると、いきなり「最近のツイッター、いまいちすぎませんか」といわれる。
まだ飲んでもないのに、なんなんだこいつ。
「たとえば、読んでみますよ。はい。寒い朝、ひょいひょい歩いていると、井の頭
公園に向かう保育園児の行列とすれちがう。『バイバーイ』と、ひとりのちびっ子
がこっちを見上げて手を振る。私もポケットから手を出してバイバーイと笑顔。す
ると保母さん、『ありがとうございますう』と、見世物小屋のもぎりのように無表情
で頭を下げる」
読み終わって、こざかしいキツネはおおげさなため息をつく。
「この見世物小屋って、なんなんですか?」
「神社の祭りとかでたまに見るやつ」
「ヘビ女とかでしょう」
「よく知ってんじゃん」
「ああいう安直なものに、動物園は客を取られているんですよ」
いつものことだけど、発言に根拠なんてないくせに偉そうである。
「飼育部長のマチダさんが朝礼でいってました。だから、あんな見世物小屋のこ
と書くのやめてください。流行ったら、どうするんですか」
「ツィッターがいまいちすぎるって、そういうこと?」
すこし安心する。
「いや、全体的にしょぼいし、酔ってる感じが痛いですけど、とりあえず見世物小
屋問題をとおもって」
腹を立てる前に、ハートランドビールを飲む。なんだよとりあえずって。ビール
かおれは。
「ビールもいいけど、見世物小屋のこと、書かないでくださいよ」
「そんなにいうならさ、動物園の中に見世物小屋をつくるとかさ。性悪フェネック
なんて、動物園より見世物小屋が似合いそうだな。居酒屋で飲んだくれるキツ
ネなんてけっこう客入るぜ」
ぐびぐび飲んで一気にしゃべると、性悪フェネックがうつむいて黙る。どこかの
芯をくったらしい。みるからにしょんぼりしている。めんどくさいキツネ属である。
「わかったよ悪かったよ、いいから飲めよ」
「いいですもう」
性悪フェネックは、うつむいたままいう。これはこれでめんどくさなくていいかと
はいわずに、牛肉春雨とねぎぬたを頼む。
「あ、焼き油揚げもお願いします」
私を無視して、店の主人に直接いう。
「回復するの早くね?」
「ぐれてるのもめんどくさいんです」
そうだよなとはおもうけど、それも口に出さずに大七の燗酒を頼む。これで、ま
あいいかというかんじをかもす。
で、それより性悪フェネックに聞かなければならないことがでてきた。
「つか、なんでツイッターなんて見られるのかな」
ただのキツネがパソコンとか見られるのかという、この日記の屋台骨を崩しか
ねない質問をしてみた。これはこれでけっこうどきどきするものである。
「は?」
「は、じゃなくて」
「いまごろ何いってんですか。動物園の事務所にしのびこめば、そんなの見放題
です。鍵はニホンザルに賄賂渡せば貸してくれますし、飼育係のアイフォンとか
もあるし。エサやりしてるときなんて、みんな事務所に置きっぱですからね」
「え? 何を置きっぱなの?」
「あ、美和ちゃん」
美和ちゃんが入ってきて、性悪フェネックの隣に座る。
「聞いてください。このおじさんのツイッターがつまんないとかいったら、見世物
小屋に入れちゃうぞとかいうんです」
ちょっとちがうけど、こいつにからんでも、ろくなことにはならない。
「見世物小屋って、花園神社とかにかかってるやつでしょ?」
「たぶん」
「わたし、ヘビ女見たことある」
「ほんとですか? え、どんなのですか、首、長いですか?」
あれほど見世物小屋のことをいうなといってたくせに、こんどは興味深々でい
やがる。
「ふふふ、首なんか長くないわよ」
美和ちゃんが見たのは花園神社の見世物小屋だった。入っていくと、てろてろ
した着物を羽織った二十代後半ぐらいの女の人が、パイプ椅子に座っていた。
横の机には新聞紙にくるまれたシマヘビが置かれている。観客が集まると、女
の人はその新聞紙から、頭をちぎられたヘビの胴体を少しだけ出し、はぷっとく
わえた。
「何をするのかとおもったら、そのままヘビを食いちぎろうとするんだもの」
女の人はちらっとこっちを見て、あごを左右に振り、ヘビの胴体を二センチちぎ
りとった。
「そのあと、そのヘビを食べたのかどうかはおぼえてないんだけど、かわいい女
の子がそんなことするというのは、ショックだったな」
「おいしいんですかね、ヘビって」
「それはキツネのほうがくわしいだろう」
ここで私が口をはさむ。
「は? 動物園生まれですからぼくは。ヘビなんて食べるわけないでしょう」
「その『は?』ってのやめない?」
「は?」
「まあいいじゃない」と美和ちゃんが、性悪フェネックに大七の燗をついでやる。
ついでに私もついでもらう。
「ま、そういうことで、乾杯。で、だし巻き玉子お願いします」
美和ちゃんはここのおいしいんだよねといいながら、「最近何かおもしろいこと
なかった?」って聞いてきた。あります、あります。
「このまえ井の頭公園を歩いてたときなんだけど」と、私の話は始まる。
公園の池の西側の道を四、五歳の男の子が補助つき自転車で走っていた。ま
だ乗りなれてないのか、ハンドルを大げさに右に左に曲げて、いまにも転げ落ち
そうである。
子どもの前で、中腰の母親が手まねきしながら先導する。「バックオーライ」の
要領である。
「ケンちゃん、はい、はい、前を向いて。転んだってだいじょうぶだから。ね、また
起きればいいんだから。ほら、前を見て進むのよ」
子どもは何をいわれても要領を得ない。
「だけど、この子どもが大人になって新宿三丁目の酒場で深酒して、トイレであ
いだみつをのカレンダーを見たら、たぶん意味もわからず涙があふれるとおもう
んだよな」
話し終えて、大七をつぐ。達成感にみちる。
「いまの、何がおもしろいんですか?」
性悪フェネックが私の置いた大七の銚子をとりかえすようにして、自分のところ
まで運んでつぐ。
「あいだみつをって知らないだろ?」
「は?」
「じゃあ無理だね」といって、美和ちゃんを見る。
「どうかな。今回のは、中の下かな」
「はあ」
こんどは私がため息をつく。
「まあ、気にするなって」と性悪フェネックにタメグチではげまされる。
そのあとで、美和ちゃんが友だちに借りて見たローリングストーンズのDVDの
話をした。辞めたくてしかたがなさそうなビル・ワイマンや、きちんと演奏する顔
の壊れる前のキースや、ことあるごとにミックにちょっかい出されるロニーはよか
ったけど、おまけのインタビューのミックは、驚くほどおじいさんになっていたらし
い。
「玉手箱二箱分は老けていたの。人って、ちょっと目を離したすきに、ヒヤシンス
のように老けていくものなのね」
「そうですね美和ちゃん。みんなヒヤシンスなんです」
あいづちになってないけど、それから私たちは、ヒヤシンスのように老けること
を受け入れながら飲みつづけた。性悪フェネックが、動物園で売られているTシ
ャツは象の花子ばかりが売れて、自分は絵柄にすらなっていないのがくやしい
から、こんど「フェネック柄のシャツが欲しい」とはがきかメールで投書してくれな
いかと頼まれたが、それを聞いている時間はなかった。
店を出て、西荻南口の路地を歩く。そばの焼鳥屋から煙が立ちのぼる。満月
っぽい月に、煙がかかる。「はい、ごちそうさんっ」と、焼鳥屋から知らないおっさ
んが出てきた。勘定している連れを待ちながら、コートを着ている。
「なんてことないんだけどさ」
美和ちゃんがいう。
「店から出てきて、連れの人を待つだけの人って、幸せに見えてしかたがない
の」
焼鳥も食べたし、お酒もおいしかったし、話も盛り上がって、相手との距離も少
しだけ縮まった。あとはその相手を待つだけである。
「こんな幸せなことはないと思うの。このささやかな瞬間においてはね」
まあそういわれれば、そうみえないこともない。
「わかります美和ちゃん。じゃあもう一軒行きますかって、その関係性においてな
んのストレスも発生させなかった、あるいは継続する意思を阻害するにたる要
因は、だれも発生しかなったことになるわけですよね」
性悪フェネックはTシャツのうらみのかわりなのか、わかりにくいことをわかりに
くくいう。ほっておいたら、美和ちゃんが口をひらいた。
「フェネックはそういうけどさあ、この瞬間だけなの。飲み会がどうだったかまで
は私にはわからないけど、先に出て少し笑顔になってて、相手を待つだけという
瞬間だけが、それは象の花子の誕生日より、ある種の世界平和より、このおじ
さんには幸せなの。たぶん」
「気がついてなくてもですか」
「そうよ」
「そうでしょうか。あのおじさんわかってないとおもうし、これからもぜったいあの
ときが幸せだったとかおもわないです。エサが目の前にないのにバカシマリスは
幸せなんておもわないんです」
「いいの。言葉としてとか、かたちとしてとかに置き換えなくたって、幸せは幸せ
としてあるんだから、それだけでその人に幸せは蓄積していくの。あの笑顔だけ
でいいのよ。言葉にするとか認識するとかは、フェネックや私が思ってるほど重
要ではないの」
「そうでしょうか」
「言葉にするとか名前つけると、むしろそこで思考停止しちゃうでしょ。言葉にな
らないことなんてたくさんあるんだからさ」
「はあ」
ここはなんとなく性悪フェネック側につきたいけど、黙って歩く。酒はうまかった
し、まあいいとする。言語化されなくても、幸せは幸せか。
性悪フェネックと美和ちゃんと別れたあとで、家の近くのコンビニに寄る。飲ん
だくせにハートランドビールと炭酸水をもってレジに行く。千円もしない買い物な
のに、千円札がない。レジのショートカットのおねえさんは、一万円お預かりしま
すといって気にする風もない。レジから千円札の束を取り出して、「一千、二千、
三千、四千」と声を出して数える。しかし、わりとせっかちなかけ声にくらべて、札
をめくる手はいたって悠長だった。三千円あたりからだんだんずれて、「九千」と
いい終わったときには、まだ七枚めだった。
おねえさんがばつ悪そうに笑顔になる。私もなんとなくおかしくて笑った顔にな
る。二十年前なら、これだけで恋に落ちるなきっと。でも言語化も具体化もされ
ずに店を出る。
* * *
「君はとにかく目を開けて、バナナフィッシュがいないか見張っていてくれたま
え。今日は絶好のバナナフィッシュ日和だからね」
「一匹もいないよ」とシビルは言った。
「無理ないさ。奴らの習慣はものすごく変わってるからね。ものすごく」。彼はんな
おも浮輪を押した。水は彼の胸にも達していない。
「奴らは実に悲劇的な生涯を送る」と彼は言った。
「知ってるかいシビル、奴らがどういうことするか?」
シビルは首を横に振った。
「奴らはね、バナナがたくさん入ってる穴のなかに泳いでいくのさ。入ってくとき
はごく普通の見かけの魚なんだ。けどいったん入ると、もう豚みたいにふるま
う。バナナの穴に入って七十八本バナナを食べたバナナフィッシュを僕は知って
るよ」
「バナナフィッシュ日和」(J.D.サリンジャー/柴田元幸訳)
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